シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ( Captain America: Civil War)

 2008年の「アイアンマン」から始まるマーヴルシネマティックユニバース(MCU)、あるいは単にアベンジャーズシリーズはマーヴルコミックスの中堅ヒーローを集めて単一の設定・世界観を作りあげ、まさにその「ユニバース」を土台に様々なヒーローをクロスオーバーさせる企画で、これまで「アイアンマン」「インクレディブル・ハルク」(2008)「マイティーソー」(2011)「キャプテン・アメリカ(2011)」「アベンジャーズ」(2012)などヒットを飛ばしてきた。

 が、私自身そもそもDCコミックス派であるのと、企画の口火を切ったアイアンマンが肌に合わなかったせいもあって、特に「アベンジャーズ」以降はほとんど観る気がしていなかった。

 アイアンマン(ロバート・ダウニー・Jr)はこのシリーズの看板ヒーローであるが、彼が主役のシリーズ「アイアンマン」の1、2作目までを観て(3作目は未鑑賞)、私の読解力のなさ故か、彼のヒーロー性がなにに依拠しているのかまるで分からなかったのだ。

 国籍問わずあらゆるスーパーヒーロー(なんらかの理由で超人的な能力を獲得し、自警活動を行うキャラクター)には、彼・彼女を無法者、「怪人」と区別し、「ヒーロー」たらしめるなんらかの文脈が必要となる。

 マーヴルコミックスの稼ぎ頭、スパイダーマンを例に挙げてみる。彼のヒーロー性を象徴するのが、サム・ライミ版「スパイダーマン」(2002)で主人公ピーター・パーカー(トビー・マグワイア)の養父ベン・パーカー(クリフ・ロバートソン)が発し、また映画のキャッチコピーにもなった、「大いなる力には大いなる責任が伴う(With great power comes great responsibility.)」という言葉だ。スパイダーマンことピーター・パーカーは或る日超人的な力を手に入れ、それを私欲の為に行使するが、その行為が引き金となって間接的に養父ベンを死に追いやってしまう。それをきっかけにして彼は自らの力を自らの選択によって利他的に行使する決意をする。その選択は彼を「スパイダーマン」に変えたが、同時に彼のピーターとしての生活を侵食していくことになる(「スパイダーマン2」(2004))。彼のヒーロー性を支えるのは、ノブレスオブリージュ的精神と自己犠牲、さらには自らの利己心との対決(彼と敵対する怪人は、かつて力を私欲の為に行使した自分を写しているのである)といった文脈である。

 ノブレスオブリージュを果たそうとするヒーローは多くいるが、最も代表的なのはバットマンだろう。バットマンことブルース・ウェインマイケル・キートン/クリスチャン・ベール)は大財閥の御曹司であるが、故郷ゴッサムシティの犯罪撲滅の為、私財を投げ打ってハイテクマシンを開発し、バットマンとなって自警活動を行う。加えてティム・バートン版「バットマン」(1989)並びに「バットマン・リターンズ」(1992)、更にはクリストファー・ノーラン版「ダークナイト」(2008)で強調されたのは、彼の変態性である。彼は事あるごとに怪人(殊更、ジョーカー)との類似性を表現され、「同じ穴の狢」として描かれる。バットマンは常に善と悪の境界線に立ちながら微妙な綱渡りを強いられ続けるが、その境遇が彼をヒーローたらしめている。

  アイアンマンことトニー・スタークも、ブルース・ウェインと同じく大金持ちで、その私財と天才的な頭脳を以って自警活動を行うヒーローである。彼は所謂「死の商人」であったが、自らの売った武器が悪用されている現実を嘆き、武器の製造・販売をやめ、その技術を悪人の成敗に活用するようになる。バットマンと異なるのは、プライベートが比較的充実しているということと、なにより彼の活動が公然化しているということだ。顔バレしているのである。つまり彼のヒーロー活動には葛藤がないのである。また、彼は武器が悪用されていることに「気付いて」改心するのだが、彼の天才的な頭脳をもってすればその程度のことは「気付く」までもなく分かることだと私は思ったし、また彼は武器を他者に販売・譲渡することを止めたものの、自分はミサイル・レーザー・ジェット推進などありとあらゆる最新兵器に身を包み、テロリストや「悪の怪人」を薙ぎ払っていく。ここに傲慢さを感じるのだ。

  前置きが長くなったが、結論からいえば、今回の「シビルウォー」最大の功績は、このアイアンマンにヒーロー性を明確にしたことではないかと思う。

今作はMCUの中でも細かくいえば「キャプテンアメリカ」のナンバリングに位置している。先ほどMCUは観る気がしなかったと書いたが、実をいうと「キャプテン・アメリカ」だけは別だった。前作「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(2014)」が佳作であったからだ。

 「ウィンターソルジャー」で描かれたのは、圧倒的な情報技術と武力による管理・監視と上からの平和を目指すアメリカ政府とキャプテン・アメリカクリス・エヴァンス)の対決であった。それでもなおキャプテン・アメリカがキャプテン・「アメリカ」であるのは、彼がアメリカの理想を体現するヒーローだからである。今作「シビルウォー」もこの構図を踏襲していて、体制側の管理を受けることでアベンジャーズという組織の存続を図ろうとするアイアンマンと、政府による管理をあくまでも危険なものとして捉え反抗していくキャプテン・アメリカ、というのが基本的なストーリーラインである。このプロットがもたらしたのは、「アメリカの理想を体現するキャプテン・アメリカ」と「アメリカの現実を体現するアイアンマン」という鮮やかなコントラストだ。この対比によってアメリカの業を担うアイアンマンのヒーロー性が、はっきりと浮かび上がる。

 また、スパイダーマントム・ホランド)を出した効果もある程度あったように思う(正直にいうと消化不良感は否めないが)。軍人のキャプテン・アメリカ、典型的アメリカンブルジョワジーのアイアンマンに対して一般「市民(シビル)」の視点が入ったことがひとつ。また特定の組織に所属せず、自らの「選択」によって自警活動を行うスパイダーマンの存在は、体制の管理を受け入れることで選択と責任を放棄しようとするアイアンマンに葛藤を生み、魅力的なキャラクターに成長した。

この映画の中でアイアンマンは、ほとんど「選択」をせず、状況に流され続ける。結果ヘルムート大佐(ダニエル・ブリュール)の仕掛けた憎しみに最もセンシティブに反応してしまうのが彼だ。「選択」を奪われる怖さは、洗脳されるバッキー・ウィンターソルジャー(セバスチャン・スタン)にも象徴されている。

アベンジャーズをはじめ世界の憎しみを煽って内部分裂を狙うヘルムート大佐は明らかにISを象徴している。ほとんど彼の勝利で終わる映画のラストは示唆的だ。同時に憎しみの連鎖を断つ為になにが必要か、ブラックパンサー(チャドウィック・ボーズマン)の「選択」とキャプテン・アメリカの手紙にメッセージ性を感じ取ることができる。

総評して、ティム・バートン版「バットマン」、「ダークナイト」「スパイダーマン2」「ウォッチメン」(2009)など社会派スーパーヒーロームービーを踏襲した佳作であったと評価できるだろう。

「スターウォーズ/フォースの覚醒(Star Wars: The Force Awakens)」

スターウォーズ/フォースの覚醒(Star Wars: The Force Awakens)」。

 

待ちに待った、本当に待ちに待った作品だ。
 
私は筋金入のスターウォーズファンだ。
旧三部作の公開は生まれる以前だったので、初めて見たスターウォーズはテレビ放映の「EP6(ジェダイの復讐(帰還))」であった。
 
それからというもの、毎年のようにサンタクロースにライトセーバー(本物)が欲しいと願っていた。なだめる両親も大変だっただろう。
 
懐中電灯でライトセーバーごっこもした。
口でブゥンブゥンと言いながら。
 
あれから20年以上たった今でも、自動ドアの前では手をかざしてしまう。
 
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今作の感想を一言で表すと「静かな興奮」だ。
 
誤解を恐れずにいえば、今作を観る前と後では、大きなテンションの落差があった。
 
メディアの熱狂も手伝って異常な興奮と共に劇場に足を運んだ私であったが、鑑賞後は意外にも冷静であった。それでいて静かに興奮していたのだ。
 
「勘違いするな、これから始まるんだ。」
 
そのようなメッセージが、この映画には確かにあったのだ。
 
 
以下、2か月前に私がTwitterにあげた脚本予想を基に作品の分析をしようと思う。
(今記事に挙げるツイートは全て10/20/2015に書かれたものです)
 

 

<ここからネタバレ>
<映画を鑑賞後に読むことを強くお勧めします>
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ほぼこの通りでした(ドヤ顔)

オープニングクロールで

 

「ルークが消えた!」

 

と出た時点でガッツポーズしてしまった。

 

得意げに書いてしまったが、しかしこの程度の脚本予想はスターウォーズ・ファンであれば誰でも思いつくのだ。ここが重要なところで、JJエイブラムスはオールドファンの「お約束」を全く外さなかった。監督としての「我」を殺し、"オールドファンのため"今までのスターウォーズをそっくりそのままトレースしているのだ。

特に今作「EP7(フォースの覚醒)」は、伝説の始まり、「EP4(新たなる希望)」のプロットを忠実になぞっている。

 

 

例えば、両作品のオープニングから主役登場までの展開を比較するとよく分かる。

 

EP4(新たなる希望)

機密情報を持つレイア(キャリー・フィッシャー)が帝国に追われる。

レイアは機密情報をR2-D2にたくす。

ダースベイダー(デビッド・プラウズ(演)、ジェームズ・アール・ジョーンズ(声))登場。レイア捕縛される。

R2-D2(とC-3PO)が砂漠の惑星タトゥイーンとルーク(マーク・ハミル)が出会う。

 

 

EP7(フォースの覚醒)

機密情報を持つポー・ダメロン(オスカー・アイザック)がファーストオーダーに追われる。

ポーは機密情報をBB-8にたくす。

カイロ・レン(アダム・ドライバー)登場。ポー捕縛される。

BB-8が砂漠の惑星ジャクーでレイ(レイジー・リドリー)と出会う。

 

このように全く同じである。この後も、主人公の導き手(この役回りは重要である)で(ハン・ソロ=ベン・ケノービ)に出会う、敵の最終兵器(スターキラー基地=デス・スター)は惑星を破壊する威力、導き手と共に最終兵器に乗り込みバリアを解除する……など、数え挙げればキリがないほどだ。

 

このように「EP4をなぞる」方針で進む今作であるが、この方針はある重要な問題を監督につきつけたに違いない。

 

 

EP4(新たなる希望)では物語の導き手、つまりオビワン(ベン)・ケノービが死亡するのだ。

これはつまりEP7(フォースの覚醒)には"犠牲"が必要となるということを意味する。

 

ちなみに私は、

 

 

と予想をしたが、思い切り外してしまった。

 

この役回りハン・ソロを選んだことに賛否両論あるだろう。

しかし私は英断であったと思う。

 

ハン・ソロスターウォーズ世界の中でもトップクラスの人気キャラクターだ。

それだけにこれから新しいサーガを描いていく上でハン・ソロの扱いには慎重にならざるを得なくなる。時に足かせにすらなるだろう。

JJエイブラムスはEP8以降の監督はしないことが明言されている。つまり彼の仕事はこれからの土台構築だ。彼は次作以降の為に、あえて「ハン・ソロ殺し」の咎を背負ったのだ。

 

退場のさせ方も良い。息子であるカイロ・レンに殺される。

カイロ・レンの側に立てば、これは重要な意味を持つ。

 

カイロ・レンは明らかに未熟な悪役として描かれている。カイロ・レンのライトセーバー(十字のライトセーバー!)の光刃が揺らいで見えるのは、その未熟さを表現しているのではないだろうか。

 

その未熟なカイロ・レンがこれから(ベイダーのような)カリスマ的な悪役として成長していく為には「父親殺し」(オイディプス王)という通過儀礼を経なければならないのだ。

 

またカイロ・レンはダースベイダーの信奉者である。

これはまさに我々スターウォーズ・ファンのことだ。この物語で我々が感情移入すべきなのは、実は彼なのである。

 

 

カイロ・レンをはじめとして、JJエイブラムスは旧キャラクターを大事にしながらも、新しいキャラクターを魅力的に描いた。これがJJエイブラムスの最大の功績だろう。

レイやフィンの成長は物語の軸になりうるし、ポー・ダメロンのいぶし銀の活躍はこれからもファンの目を引き付けるだろう。

 

まさに彼はこれから続く新しいスターウォーズ・サーガの堅固たる基礎を構築することに成功したといえる。

 

映画はレイとルークの出会いで終わる。

これから先どのような展開になるのだろう。

JJエイブラムスが整えた下地はどのような物語も許容する懐の深さがある。

 

予想にはこうツイートしたがどうなることか…。

 

「007/スペクター(Spectre)」

「007/スペクター」は前作「スカイフォール」の裏面といえるかもしれない。
 
007シリーズは今作のスペクターで24作目、「新生」した2006年のダニエル・クレイグ版007、「カジノ・ロワイヤル」から数えると4作目になる。
 
カジノ・ロワイヤル」は、ガンバレル・シークエンスから始まらない、マティーニをシェイクしない、などこれまでの007シリーズとの決別をはっきりと示した作品であった。それ以降「スペクター」も含めて、全て設定とキャストを共有する一連のシリーズとなっている。
 
元々007シリーズはコメディとシリアス・アクションをいったりきたりの作品群だ。それについてはダイナマイト・ボンバー・ギャルさんのやりすぎ限界映画入門が詳しい。
 
Bond’s been through his blaxsploitation phase (Live And Let Die), gone kung fu fighting (The Man With The Golden Gun), ripped off Miami Vice (License To Kill) and Moonraker even followed Star Wars into space. 2012’s inexplicably acclaimed Skyfall was for all intents and purposes a remake of The Dark Knight, co-starring Javier Bardem as The Joker and spending a rather baffling amount of screen time on Bond’s dead parents, even giving James an Alfred the Butler of his very own.
 
SPLICED PERSONALITY
また、この引用の通り、当時の社会や映画の状況を反映させるのも特徴だ。
 
さて、ダニエル・クレイグ版では完全にシリアス路線に固定し、リアリズムを追求するスパイ映画になった。これには「バットマン・ビギンズ」成功の影響もあるだろう。ダニエル・クレイグ版3作目「スカイフォール」に至っては明らかに2008年「ダークナイト」の影響を受けている。
 
これによって007は新たなファン層を得た。つまり、ジェームズ・ボンドダニエル・クレイグ)のファンだ。かくいう私もそうで、ジェームズ・ボンドショーン・コネリー)もジェームズ・ボンドロジャー・ムーア)もジェームズ・ボンドピアース・ブロスナン)もあまりピンとこなかった私がダニエル・クレイグ版007はリアルタイムでちゃんと観続けている。世代もあるが、こういう人は多いはずだ。
 
結論からいえば今作「スペクター」はこのようなファン層を置いてけぼりにしたところに問題がある。
 
あらすじを説明するとこうだ。
(*ラストまでネタバレしています)
 
 
 
 
 
前作「スカイフォール」で新体制になった00部門はMI6の新局長"C"(アンドリュー・スコット)の方針により解体寸前であった。一方ジェームズ・ボンドダニエル・クレイグ)は単独で前任のMの遺言でマルコ・スキアラ(アレッサンドロ・クレモナ)という男の暗殺を遂行していた。しかしマルコの背後には「スペクター」とよばれる犯罪結社がおり、それが世界中の犯罪を立案遂行していることが明らかになる。「スペクター」を追うボンドは、「カジノロワイヤル」の敵役の一人であったミスター・ホワイト(イェスパー・クリステンセン)とその娘マドレーヌ(レア・セドゥ)の協力を得てその首領ブロフェルド(クリストフ・ヴァルツ)に辿り着く。ブロフェルドは世界中で犯罪を起こしているだけでなく、これまでボンドが関わった事件全ての黒幕でもあった。しかもボンドの養父の実子でもあり、ボンドが幼少時に雪山で養父と共に死んだと思われていた人物であった。また、”C”を裏で手引きしていたのもブロフェルドであった。ブロフェルドが送る刺客をマドレーヌと共に退けながら、”M”(レイフ・ファイアンズ)、”Q”(ベン・ウィショー)、マネーペニー(ナオミ・ハリス)と合流したボンドは、世界の機密情報を握ろうと画策する”C”の陰謀を食い止めると共に、ついにブロフェルドを逮捕する。
 
 
 
 
 
今作の敵スペクターには、007ファンにとっては重要な意味があって、これがこの映画最大のウリである。スペクター(ブロフェルド)は初期007に登場するジェームズ・ボンドの宿敵なのである。それが再登場するということで話題になった。
「すべての巨悪を束ねる世界犯罪組織」という現在の価値観からみれば陳腐な設定であるが、「すべての巨悪を束ねる世界犯罪組織」の原点のひとつがこのスペクターなので、いまさらそれはないなと思ってはいけない。
 
犯罪組織スペクターも含め今作のテーマは原点回帰だ。これは前作「スカイフォール」のラストシーンで明確に示された。その提示を受け継いでいる。
今作のジェームズ・ボンドダニエル・クレイグ)は女をこますし、マティーニもシェイクしようとする(が、飲めない)。ボンドカー(アストンマーチン)には秘密兵器が搭載されていて、時計型爆弾もある。伝説のアストンマーチンDB5もスカイフォールに続き登場する。またギャグもわりに冴えていて、映画館ではそれなりにウケていた。
 
オープニング・シークエンスのド派手なアクションは見物で引き込まれる。ローマ市街地のカーチェイスシーンも迫力があるし、セリフのセンスも良い。ラストで"M"、"Q"、マネーペニーとフォーマンセルで立ち向かう展開も熱い。
 
ただ、(私が新参ファンであるせいか)敵役ブロフェルドに惹かれないのである。
ブロフェルドは世界中の犯罪の黒幕である組織スペクターの首領で、ジェームズ・ボンドの宿敵である。これ以上ない魅力的な設定でありながら、今作ではチンケな悪党にしか映らない。
 
ブロフェルドの登場シーンは、古参ファンでない私も非常に興奮した。
全上映時間148分の長丁場でブロフェルドはなかなか姿を見せない(時間失念。大体40分~1時間ぐらいだったように思う)。やっと姿を見せたと思ったら、影で顔が隠れており、側近に小声で指示を与えるのみ。
悪のカリスマ性が演出されており、これはとんでもないやつがでてきた、と思わせる。
 
しかし一旦姿を見せると……
ジェームズ・ボンドの前にのこのこ出ていくのである。
知性派じゃなかったのか…。一応ジェームズ・ボンドに私怨がある(後述)という説明があるが、前作までは人を操ってボンドを苦しめていた(らしい)ブロフェルドがいきなり自力本願である。しかもそのせいで顔に手痛い傷を負い、最後にはテムズ川上空をヘリで逃げているところをボンドに船の上から(!)拳銃で(!)プロペラの付け根を狙撃されて(!)墜落、逮捕されてしまう。
 
これではチンピラである。名優クリストフ・ヴァルツの地力でなんとかもっているものの、設定からすればあまりにパッとしない悪役だ。もしかしたらこれは影武者で(ブロフェルドには影武者が多い)次作を見越しての展開かもしれないが、クリストフ・ヴァルツが影武者というのも…。
 
またアクションも(満足いく演出であったものの)大味だ。特に先述したラストシークエンスは笑ってしまう。が、これはわざとやっているのかなとも思う。
 
というのも今作は荒唐無稽な初期007に原点回帰したものであるからだ。
そしてこの点が、シリアスなダニエル・クレイグ版007のファン層には響かないのではないかと思う。RottenTomatoesのレビューにもそれが反映されているのではないか。
 
ところで、ブロフェルドの私怨とは、ボンドに父の愛を奪われたことであった。これは旧約聖書のカインとアベルのモチーフであると町山氏(TBSラジオたまむすび11/10)の指摘通りだが、ふと思い返すと「スカイフォール」の敵役、シルヴァ(ハビエム・バルデム)の私怨と重なる。シルヴァは母親ともいうべき”M”(ジュディ・リンチ)の愛を奪ったボンドと”M”自身への復讐が目的であった。「スカイフォール」とスタッフがほとんど同じであるという点も加えると、今作は前作「スカイフォール」をポップにした裏面であるという見方もできるかもしれない。
 
その点でラストシーンは前作と巧く対比できている。
前作で母を失ったボンドは、今作でマドレーヌ(madeleine、マグダラのマリア)という新たな母、伴侶を得て去っていくのだ。

「セッション(Whiplash)」

*ネタバレあり。

 

結論から言えば、この映画は最高だ。

 

 原題「Whiplah」はジャズのスタンダードだそうだ。その名の通り青春ジャズ映画の範疇であろう。

青春音楽映画のクライマックスはライブ、と相場が決まっている。「天使にラブソングを」「スクールオブロック」「ピッチパーフェクト」どれも名作で、他にも数えきれないほどあるが、この映画はそれらを過去のものにしてしまった。

今後もそういう映画を観るだろうし、感動もするだろう。それでも「セッション見ちゃったしなぁ」といってしまうだろう、と思わせる衝撃があった。

 

J・K・シモンズの怪演、マイルズ・テラーの流血ドラム(本当に流血しているらしい)、ジャズの名曲、どれも魅力的だが、あえていえば(またあらゆる評にいわれているように)「セッション」の全てが約10分のクライマックスにある。

 

わずかなセリフ。

全てを語る表情。

怒涛のドラムプレイ。

演奏終了と同時に暗転。

 

暗転の瞬間。前頭葉と脳髄と松果体と心臓と…精神が存在するといわれるありとあらゆる部分にすさまじい衝撃が襲った。

 

上映時間106分のうちクライマックスを除く96分はこのカタルシスのためにある。

フレッチャー(J・K・シモンズ)の不条理なしごきも。

アンドリュー(マイルズ・テラー)が狂気に染まっていく過程も。

 

文句なしのアカデミー助演男優賞を獲得したJ・K・シモンズ

彼が演じたフレッチャーという役はどのような人物なのか。

 

名門シェイファー音楽院で最高の権威を誇る指揮者で、最高のスタジオ・バンドを率いている。

 

「でははじめよう。Whiplash(鞭打ち)。」

 

その言葉通り、彼はアンドリュー達バンドマンに次々と暴力的な言葉(時には直接的な暴力)を与える。

 

「テンポ!テンポ!正しいテンポを刻め!!」

 

フレッチャーがこだわるのは「音程」と、そして「テンポ」だ(指揮者なら当然であるかもしれないが)。

その二つに共通するのは「公」の性質である。

楽経験者なら分かると思うが、一人の「テンポ」の乱れはバンドセッションの乱れを誘発するし、「音程」の乱れは、それがセッションであればなおさら目立ち、バンドの崩壊を招く。

 

名門音楽院の最高権威でテンポと音程に異常に拘る指揮者。

ここに見えてくるのは音楽のオーソリタリアニズム、〈公〉的な性質である。

 

しかしフレッチャーはこうもいう。

 

「周りの評価は気にするな。」

「「私の」バンドだ、「私の」バンドの邪魔をするな。」

 

ここにはフレッチャーの<エゴ>イスティックな側面が垣間見える。

音楽(芸術)には<公>の性質と<私>の性質がある。

音楽家やアーティストなど音楽(芸術)を生業にするものは皆、<公>的に認められた者たちである。しかし音楽(芸術)を楽しめるのはそのような人物だけではない。それらアーティストに評価を与えるのは畢竟個人の主観である。そも音楽とは自己表現である。学校の合唱コンクール、趣味で弾く楽器、最近ではヴァーチャル・アイドルに歌を歌わせることもできる。これらはすべて音楽の<私>的な側面である。

 

この音楽の二面性を体現したキャラクターがフレッチャーなのだ。

彼は音楽の外では他人を気遣う温和な老人として描かれる。また自らが演奏を披露する場面では、非常に穏やかな表情を浮かべる。

しかし一旦バンドの前に指揮者として立ったとき、彼は豹変を見せる。何故彼は演奏者を攻撃するのだろうか。それは音楽という自己表現が彼の〈エゴ〉を呼び覚ますからだ。自らが演奏をするならばその〈エゴ〉を充足させることが出来る。しかし指揮者として演奏者の、つまり自己表現によって今まさに〈エゴ〉を充足させようとしている者を目の前にすると、自分もそうしたい!自分ならもっとうまくやれる!という彼の〈エゴ〉が、言葉や暴力として発露するのだ。しかしそれは彼の教師としての〈公〉的な理想、第二のチャーリー・パーカー、第二のバディ・リッチを育てあげるという理想と対立する。その矛盾が表現されているのが、フレッチャーのかつての教え子ショーン・ケイシーが亡くなり、フレッチャー自らが見出したショーンがどれほど優れた演奏者であったかをバンドマンに涙ながらに語るシーンだ。

 

「学院の落ちこぼれであった彼を私が見出した。」

「彼は素晴らしい演奏者だった。」

「だが亡くなった。〝車の事故〟によって。」

 

後にショーンはフレッチャーのしごきによって鬱病を患い、自殺したことがわかる。彼は何故嘘をついたのか。保身だ。自分が育てた素晴らしい演奏者を皆に知ってほしい。しかし自分の権威を失うわけにはいかない。彼は強烈な自我を持ちながら、〈公〉に囚われているのである。

 

ではアンドリューはどうか。

シェイファー音楽院の一年生。

毎日ドラム漬けで、偉大なドラマーになることしか考えていない。

友達もいない。彼が劇中ドラムを通さずに関係を構築する人物は、家族を除くとニコル(メリッサ・ブノワ)だけだ。彼女は特に何の目的もなくたまたま受かった大学に入り、映画館のバイトをして小遣いを稼ぐ、〈公〉に溶け込むステレオタイプな大学生だ。アンドリューは彼女と付き合うことになるが…

 

彼がドラム漬けを突き通すために彼女に吐くセリフははっきりいってかなりイタい。

 

「君は僕に、会いたいというだろう」

「僕はその時間さえもドラムに充てたい。」

「僕はイライラしてくる。」

「そうすると口論になる。」

「そうなれば君も気分が悪いだろう。」

「だから別れよう。」

 

要するにアンドリューの世界認識は、他者性を欠落しているのだ。アンドリューの世界はアンドリューの想定でしか動かない。他者性という防護服を失い、自分が世界に直接晒されている。この人物像は、まさに今所謂「大人」たちが批判する所謂「若者」そのものである。

 

彼はフレッチャーのしごきに曝されて狂気に陥っていく中で、スタジオ・バンドのライバルたちにも暴言を吐くようになる。

 

「「僕が」主奏者だ。あのクソ野郎をドラムに近づかせるな。」

 

そう、彼が体現するのは狂気に近い<エゴ>である。

しかし、彼は音楽界の<オーソリティ>シェイファー音楽院に通い、音楽界の<オーソリティ>フレッチャーに学び、そして自らも音楽界の<オーソリティ>になろうとする。彼はフットボールで活躍した大学生の親戚とのディナーにおいて、こう話す。

 

「君の大学は三流じゃないか。プロにはなれない。」

「僕はプロになる。皆が認める偉大なドラマーになる。そうなるならば死んでもかまわない。」

 

他者に認められたい。

他者性が失われた世界でも、得体の知れない他者が否応なく存在する。

彼もまた、<公>と<私>の矛盾を抱えるキャラクターなのだ。

 

邦題「セッション」は不評なのだそうだ。原題はフレッチャーの振る舞いに掛けられているからだ。しかし私は良い邦題をつけたな、と思う。

この映画はフレッチャーとアンドリュー、二つの強烈な<エゴ>のぶつかり合い、「セッション」なのだ。

 

終盤、アンドリューはフレッチャーの強烈な<エゴ>に屈し、ドラムを封印する。

ここで映るコロンビア大学オバマ大統領の出身校で有名)の願書や、レジ打ちとして働く場面は、彼が一般の大学生として〈公〉に溶け込んでいく様子を描いているのだろう。

さらに彼は、弁護士という<公>的な機関で、<公>的な手続きによって、フレッチャーを学院から<公>的に抹殺する。

フレッチャーと同じく音楽によって支えられた〈エゴ〉を所有していたアンドリュー。彼はその音楽を捨て、<公>の者になってしまったのだ。

 

しかし、彼の<エゴ>を呼び覚ましたのもまた、フレッチャーの<エゴ>であった。

自分を学園から追い出したのがアンドリューであると知っていたフレッチャーは、自分の新たなバンドが出演するフェスに、バンドマンの一員として快く招くフリをして、わざと誤った曲の演奏を指示する。アンドリューに<公>の場で恥をかかせようという魂胆だ。そしてその目論見は成功する。復讐である。究極の〈エゴ〉イズムだ。

 

しかし彼の復讐は、アンドリューに<公>的な恥辱を与え、彼の<公>的なアイデンティティを崩壊させることは出来たが、失ったアイデンティティを埋めるように、彼の<エゴ>ははるかに増大するのだ。

 

「悔しいか!悔しいといってみろ!」

 

フレッチャーが学院で彼を罵った言葉だ。

今までの味わった悔しさと、フレッチャーに対する憎しみのすべてを込めてドラムを叩く。言葉や暴力ではなく。

「次はスローな曲を…」と<公>たる観客に紹介するフレッチャーを激しいドラムプレイで遮り、バンドマンに指示を与える。

 

「キャラバンだ!「僕が」合図を出す!」

 

彼の強烈な<エゴ>にバンドマンもついていくしかできない。彼の独壇場である。

そんな彼にフレッチャーは必死にこう罵る。

 

「なんのつもりだ。」

「目玉をくりぬいてやる。」

 

音楽という、〈エゴ〉そのものともいえるツールを駆使して語るアンドリューに対して、フレッチャーの言葉という貧弱な、〈公〉的な武器では、もはや戦車に竹やりである。

 

未だ<公>に囚われたフレッチャーに敵うはずがないのだ。

 

やがてフレッチャーは負けを認めるように微笑む。

フレッチャーとアンドリューの目線が交差し、キャラバンのクライマックスがホールに響く…。

 

 

この映画は、勘違いした個人主義に走る今の所謂「若者」や、それを批判する所謂「大人」、またアメリカナイズドされた中途半端な個人主義とか、和を大事に、といった言説に対して、強烈な一撃を浴びせる。

究極の<個>、狂気に限りなく近づいた<個>が自己表現の手段を得た時、相手の精神を直接、そして激しく揺さぶり、反目し合う〈個〉と〈個〉を半ば強制的に止揚してしまう。

 

それは美しく、そして危険でもあるのだ。