シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ( Captain America: Civil War)

 2008年の「アイアンマン」から始まるマーヴルシネマティックユニバース(MCU)、あるいは単にアベンジャーズシリーズはマーヴルコミックスの中堅ヒーローを集めて単一の設定・世界観を作りあげ、まさにその「ユニバース」を土台に様々なヒーローをクロスオーバーさせる企画で、これまで「アイアンマン」「インクレディブル・ハルク」(2008)「マイティーソー」(2011)「キャプテン・アメリカ(2011)」「アベンジャーズ」(2012)などヒットを飛ばしてきた。

 が、私自身そもそもDCコミックス派であるのと、企画の口火を切ったアイアンマンが肌に合わなかったせいもあって、特に「アベンジャーズ」以降はほとんど観る気がしていなかった。

 アイアンマン(ロバート・ダウニー・Jr)はこのシリーズの看板ヒーローであるが、彼が主役のシリーズ「アイアンマン」の1、2作目までを観て(3作目は未鑑賞)、私の読解力のなさ故か、彼のヒーロー性がなにに依拠しているのかまるで分からなかったのだ。

 国籍問わずあらゆるスーパーヒーロー(なんらかの理由で超人的な能力を獲得し、自警活動を行うキャラクター)には、彼・彼女を無法者、「怪人」と区別し、「ヒーロー」たらしめるなんらかの文脈が必要となる。

 マーヴルコミックスの稼ぎ頭、スパイダーマンを例に挙げてみる。彼のヒーロー性を象徴するのが、サム・ライミ版「スパイダーマン」(2002)で主人公ピーター・パーカー(トビー・マグワイア)の養父ベン・パーカー(クリフ・ロバートソン)が発し、また映画のキャッチコピーにもなった、「大いなる力には大いなる責任が伴う(With great power comes great responsibility.)」という言葉だ。スパイダーマンことピーター・パーカーは或る日超人的な力を手に入れ、それを私欲の為に行使するが、その行為が引き金となって間接的に養父ベンを死に追いやってしまう。それをきっかけにして彼は自らの力を自らの選択によって利他的に行使する決意をする。その選択は彼を「スパイダーマン」に変えたが、同時に彼のピーターとしての生活を侵食していくことになる(「スパイダーマン2」(2004))。彼のヒーロー性を支えるのは、ノブレスオブリージュ的精神と自己犠牲、さらには自らの利己心との対決(彼と敵対する怪人は、かつて力を私欲の為に行使した自分を写しているのである)といった文脈である。

 ノブレスオブリージュを果たそうとするヒーローは多くいるが、最も代表的なのはバットマンだろう。バットマンことブルース・ウェインマイケル・キートン/クリスチャン・ベール)は大財閥の御曹司であるが、故郷ゴッサムシティの犯罪撲滅の為、私財を投げ打ってハイテクマシンを開発し、バットマンとなって自警活動を行う。加えてティム・バートン版「バットマン」(1989)並びに「バットマン・リターンズ」(1992)、更にはクリストファー・ノーラン版「ダークナイト」(2008)で強調されたのは、彼の変態性である。彼は事あるごとに怪人(殊更、ジョーカー)との類似性を表現され、「同じ穴の狢」として描かれる。バットマンは常に善と悪の境界線に立ちながら微妙な綱渡りを強いられ続けるが、その境遇が彼をヒーローたらしめている。

  アイアンマンことトニー・スタークも、ブルース・ウェインと同じく大金持ちで、その私財と天才的な頭脳を以って自警活動を行うヒーローである。彼は所謂「死の商人」であったが、自らの売った武器が悪用されている現実を嘆き、武器の製造・販売をやめ、その技術を悪人の成敗に活用するようになる。バットマンと異なるのは、プライベートが比較的充実しているということと、なにより彼の活動が公然化しているということだ。顔バレしているのである。つまり彼のヒーロー活動には葛藤がないのである。また、彼は武器が悪用されていることに「気付いて」改心するのだが、彼の天才的な頭脳をもってすればその程度のことは「気付く」までもなく分かることだと私は思ったし、また彼は武器を他者に販売・譲渡することを止めたものの、自分はミサイル・レーザー・ジェット推進などありとあらゆる最新兵器に身を包み、テロリストや「悪の怪人」を薙ぎ払っていく。ここに傲慢さを感じるのだ。

  前置きが長くなったが、結論からいえば、今回の「シビルウォー」最大の功績は、このアイアンマンにヒーロー性を明確にしたことではないかと思う。

今作はMCUの中でも細かくいえば「キャプテンアメリカ」のナンバリングに位置している。先ほどMCUは観る気がしなかったと書いたが、実をいうと「キャプテン・アメリカ」だけは別だった。前作「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(2014)」が佳作であったからだ。

 「ウィンターソルジャー」で描かれたのは、圧倒的な情報技術と武力による管理・監視と上からの平和を目指すアメリカ政府とキャプテン・アメリカクリス・エヴァンス)の対決であった。それでもなおキャプテン・アメリカがキャプテン・「アメリカ」であるのは、彼がアメリカの理想を体現するヒーローだからである。今作「シビルウォー」もこの構図を踏襲していて、体制側の管理を受けることでアベンジャーズという組織の存続を図ろうとするアイアンマンと、政府による管理をあくまでも危険なものとして捉え反抗していくキャプテン・アメリカ、というのが基本的なストーリーラインである。このプロットがもたらしたのは、「アメリカの理想を体現するキャプテン・アメリカ」と「アメリカの現実を体現するアイアンマン」という鮮やかなコントラストだ。この対比によってアメリカの業を担うアイアンマンのヒーロー性が、はっきりと浮かび上がる。

 また、スパイダーマントム・ホランド)を出した効果もある程度あったように思う(正直にいうと消化不良感は否めないが)。軍人のキャプテン・アメリカ、典型的アメリカンブルジョワジーのアイアンマンに対して一般「市民(シビル)」の視点が入ったことがひとつ。また特定の組織に所属せず、自らの「選択」によって自警活動を行うスパイダーマンの存在は、体制の管理を受け入れることで選択と責任を放棄しようとするアイアンマンに葛藤を生み、魅力的なキャラクターに成長した。

この映画の中でアイアンマンは、ほとんど「選択」をせず、状況に流され続ける。結果ヘルムート大佐(ダニエル・ブリュール)の仕掛けた憎しみに最もセンシティブに反応してしまうのが彼だ。「選択」を奪われる怖さは、洗脳されるバッキー・ウィンターソルジャー(セバスチャン・スタン)にも象徴されている。

アベンジャーズをはじめ世界の憎しみを煽って内部分裂を狙うヘルムート大佐は明らかにISを象徴している。ほとんど彼の勝利で終わる映画のラストは示唆的だ。同時に憎しみの連鎖を断つ為になにが必要か、ブラックパンサー(チャドウィック・ボーズマン)の「選択」とキャプテン・アメリカの手紙にメッセージ性を感じ取ることができる。

総評して、ティム・バートン版「バットマン」、「ダークナイト」「スパイダーマン2」「ウォッチメン」(2009)など社会派スーパーヒーロームービーを踏襲した佳作であったと評価できるだろう。