『君の名は』とウーマン村本とシャア

大ヒット長編アニメーション『君の名は』が1月3日に地上波で放送していたのでやっと観ました。

というのも『君の名は』には当初から全然興味がなくて、それは面白い面白くないということではなく、趣味じゃないという話なだけなんですが、反面、『君の名は』批評にはものすごい興味があって観てないのに話は知ってるという、まぁよくあることですね。

 

『君の名は』批評(というかほとんど言い掛かり)で面白かったのは、当時でも大ヒットの数字が出ていたのにも関わらずものすごい論調で叩かれてたじゃないですか。いろいろ見たんですけど、やはり枡野浩一さんの批判(というかほとんど言い掛かり)がほとんど大勢の批判の代表例になってるのでこれを聞くといいと思うんですけど、

 

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君の名はの話は60分前後から

 

ただ、今回ちゃんと映画観て、なんでこの作品が色んな人の神経を逆撫でするのかも何となくわかったんですよ。そこを分析することにすごく意味を感じたわけです。

 

 まず批判の大部分を占めているのがご都合主義的な展開ですね。フィクションってそれ自体が作家のご都合で描かれるもんなのであんまり言っても仕方ないんですが、あまりにご都合主義すぎると物語から置いていかれるので塩梅が難しいですよね。

 ただ今回『君の名は』はSFなんですよね。SFって最もご都合主義が許されないジャンルなわけです。ホーガンの『星を継ぐもの』が、ノーランの『インターステラー』がなぜ評価されたかですよ。いかに考証をしっかりとしながら突拍子も無いことをいうか、で評価されるんですね。ワキが甘いとすぐケンカ買われちゃうわけです。ここでSFクラスタの恨みを買うわけですね。

 それで、これは僕の意見なんですが、人類学とか神話伝承学を雰囲気で使っちゃったのもマズかったのかなとおもいます。口噛み酒と結びですね。どちらも入れ替わりの状況を理論補強するために用意されたんでしょうが、活かしきれてなくて、雰囲気で終わってしまっている。ここでも特定のクラスタがケンカ買っちゃうわけです。

 

 次によくあるのが、升野氏の言葉を借りれば「童貞っぽい」という批判ですね。言い得て妙だなと思いました。確かに「男女が入れ替わって生活するうちにお互い好きになるんだけれども女が死ぬ運命にあることに気づきその運命を変えるついでに町も救っちゃう」というストーリーは書いてるだけでイカ臭いですね。加えて制服JKを極めてローアングルに取るとか、21世紀になってもまだミニスカートの中無防備とか、意味なくブラチラしたりとか夢精(無声ではない)映画のお約束を踏襲した素晴らしい知能指数ゼロのラインナップ。

 こういうところで、エンタメといえども知性を求めるインテリをイラっとさせるわけですね。あと冗談半分の勝手な邪推ですけど、インテリは恋愛偏差値が比較的低い反面性欲が強い傾向があって、こういう演出は普段抑えつけてる僕のリビドーという獣を目醒めさせないでくれ!と困っちゃうのもあると思いますね。

 でもこういうの、最初にやり始めたの誰かは分からないですが少なくとも巨匠宮崎駿はやってますよね。アニメに少女が出てきたら無防備なスカート履かせてローアングルで撮るって、ほとんど普遍的なお約束になりつつありますよ。批判するならそのお約束自体を批判しないとダメですね。

 

 そして最後が不謹慎論ですね。感動のために町民を大量死させる必要があるのか、という。これは正しくいえば、人が死ぬことによって得られる感動の度合いが人死に見合ってない、ということだと思うんです。だって人が死んで感動させる映画って基本のキぐらい山ほどありますしね。じゃあ見合ってるのか、見合ってないのか、と考えてみると、そんなの ひとのかって ほんとうに つよい アニメファンなら すきな アニメで 泣けるように がんばるべき としか言いようがないことに気づくわけですね。

 

そしてですね、僕が升野さんの批判で見過ごせなかったのは、入れ替わりの時間のズレになぜ気付かないのか、交換日記に時事ネタかくだろう、クラスと恋愛のことしか頭にないのかという部分です。これはまず間違いないですが、高校生は交換日記に時事ネタなんて書きませんよ。クラスと恋愛のことしか頭にないです。それは高校生がバカっていってるんじゃなくて、そうならざるを得ない環境にいるからですよ。15、6の多感な時期になりゆきと数字で選んだだけの高校に突っ込まれて、いきなり対面した見ず知らずの何百人と月月火火水木金授業に部活に朝から晩まで仲良く暮らせといわれるわけですから、新聞なんて見ないです。社会科でわざわざ新聞に親しむように仕向ける授業があるくらいですからね。ここにですね、若い人への理解のなさを感じました。

 

つまりですね、『君の名は』はSFクラスタにケンカを買われ、神話伝承や人類学スキーにケンカを買われ、インテリを困らせ(性的な意味で)、不謹慎論を煽り、若者を過大評価する大人を辟易させるわけです。しかも、それぞれの集合は非常に親和性が高いんですよ。SFファンで、神話好き、東北大震災に心を痛めているインテリの大人、って山ほどいるんですね。僕を含めた庵野秀明で育ってきた世代ですよ。多分これが『君の名は』を叩いていたものの正体だと思います。

 

しかしこれらの批判は畢竟言い掛かりなんですね。いろんなクラスタがケンカ買うっていいましたけど、そもそも新海誠監督はケンカなんてこれっぽっちも売ってないんですよね。この作品はいかに高校生2人の運命的な恋愛を雰囲気良くファンタジックに見せるか、であって、SFでも神話ファンタジーでもないんですね。全部雰囲気なんです。そういう意味では批判している人たちのいう童貞っぽさこそがこの作品の本質なんですよ。夢精映画なんです。批判している人たちが実は一番本質を掴んでいるんですよ。というか、新海誠の売り物がそれだということはフィルモグラフィー的に間違いないですし、この作品に限っても予告を観た段階で分かります。だから僕は趣味が合わないと断定して観なかったんです。つまり批判している人たちの大部分は、売ってないものを1人で勝手に買ってるんですね。もしくは大人がベビーフード買っといて、まずい!こんなもん食いもんじゃない!っていってるようなもんです。

 

 つまりこれって端的に言えばよくあるインテリのマウンティングなんじゃないのってことなんです。で、こう考えてるうちにウーマン村本が元旦に朝生でボコられてるのを思い出しました。

 

http://lite-ra.com/i/2018/01/post-3711.html

 

ウーマン村本と『君の名は』ってよく似てるなぁと思うんです。ウーマン村本がやっかみをうけるのって要は何も知らんくせに語るなよってことじゃないですか。ウーマン村本は実際自分はバカで何も知らないけど、と再三前提して政治を語るわけです。それで無知を恥じろとかいわれる。まぁ言いたい気持ちも分かるんですが、でも、政治ってそういうもんじゃないの、とも思うんですね。ウーマン村本が自分を視聴者代表というように(実際に視聴者代表と認められているかどうかは別にして)、確かに有権者のほとんどは政治的に無知な人ばかりですよ。政治家すら無知でしょう。政治を専門でやってきた議員が何人いるのか。でもそれを引き受けた上でやるもんでしょう、政治って。村本に無知を恥じろという人たちは1億4千万の有権者に相対したときにも同じこと言えるんかいな、と思うわけです。そうやって貴様は、永遠に人を見下すことしかしないんだ!とシャアに叫ぶアムロの気分になってくる。こいつらはシャアなんですね。でもシャアは負けていくんですよ。

 

百歩譲って政治は分からないと語ってはいけないとしても、『君の名は』は映画なんですよ。映画って本来はインテリから最も遠いコンテンツですよ。分かってないやつらの為のコンテンツなんです。だから分かってるやつらがこねくり回していいものと悪いものがある。『君の名は』は無理やりこねくり回さなくていいんですよ。スイーツ気分で観ましょう。