「シン・ゴジラ」

この映画を観て最初に抱いた感想が、

 

「なんてメンドくさい映画だ」

 

だった。

 

決して貶しているわけではなく、恐らくこの映画が極めて私的なモノであったからだろう。その辺りはエヴァファンのほうがよく分かっていると思う。

http://machinaka.hatenablog.com/entry/2016/07/31/000923

 

ゴジラという極めて「公」的な「テーマ」をあくまで「私」的なドラマに仕立ててしまう庵野秀明の強烈なエゴイズムは、確かに彼を稀有な「作家」たらしめている要素であるし、そのエゴイズムこそ古今東西あらゆる芸術の源泉だ。だから「シン・ゴジラ」はこれでいいのだろう。ゴジラの「公」的な役割は160億円の「GODZILLA」(2014)に譲れば良かろう、といったところか。

 

石原さとみがガッズィーラをゴジラと言い換える場面も、はじめは「GODZILLA」劇中で芹沢猪四郎博士(ケン・ワタナベ)が「ゴジラ」と日本語読みする場面を連想したが、むしろ庵野ゴジラ私的利用宣言と捉える方が良いかもしれない。本作のキーワード、「好きにしろ」もそうだ。

 

ハリウッド版「GODZILLA」は全世界で当たった。実際にゴジラ愛に溢れた素晴らしい作品であった。映画は予算ではないと吼えたところでこのまま日本が「GOZILLA」を作っても勝てるわけがないのだ。故に「ゴジラ」の私的利用価値を抽出して、日本の「ゴジラ」を残す。つまり、もはや「GOZILLA」となってしまった「ゴジラ」から「シン・ゴジラ」を生み出す。これは新ゴジラでもあり、芸術は私的な自己表現であるという本質からいえば真ゴジラでもある。これを極めて公的な存在となった「GOZILLA」(もしかしたらエヴァと重ねているのかもしれない)のアンチテーゼとしてぶつけてアウフヘーベンさせていく。こうでもしないと日本で「ゴジラ」は作れないよ、というのが庵野秀明の意図だったのではないか。

 

ところでこの広告

 

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を見たときから嫌な予感はしていたが、エヴァのせいで発症した鬱病から立ち直った庵野がまた

 

「さっさと現実に帰れ」

 

エヴァの時と同じように説教しているのはどうしたことだろうか。

 ミリオタ全開でゴジラ討伐シーンを描いているときは勿論庵野も楽しかっただろうけれども、観客も乗り出して熱中していた。ところが最後に、

 

後処理が大変だからまだ終われない

 

と、頼んでもいないのにキッチリ現実に引き戻してくれるのである。

頻繁に流れるエヴァのBGMやヤシ「オリ」作戦もそうだ。エヴァの呪縛から逃れたいはずの庵野がなぜ…。

 

エヴァを呪縛ではなく作家性として受け入れたのだろうか。それはシン・エヴァンゲリオンを観れば分かるのかもしれない。