シンエヴァの扱い方(ネタバレあり)

ネタバレあり。誰も見てないメモ帳のようなものだけどこの映画は火薬庫なので一応注意喚起しております。

 

とはいえ世界観の考察などは、とある事情により一切行いません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本文

 

私は目下30中盤のまさにエヴァ直撃世代なのだけど、これまで特別エヴァというコンテンツ、おそらく「コンテンツ」と呼ばれることは庵野秀明は許せないと思うがあえてそう表現する、にハマった時期もなく、映像エンタメ好きとして教養程度に見てきた(まぁエヴァを「教養程度に知る」という行為のハードルが異常に高い作品なわけだけれども)ぐらいで、だからこそ今頃になってシンエヴァの話をするわけであるが、一方で私ぐらいのレベルがエヴァの最も「ちょうどいい客」と庵野秀明は思ってくれるんじゃないかな、と感じた映画だった。

 

この映画を見て最も違和感を感じたのは、終盤ゲンドウが計画の動機について独白する場面である。これまでのエヴァの文法からいえば絶対にありえないシーンだ。というか映画好きなら誰しも嫌いな「お気持ちをセリフでだらだら解説させるシーン」なのだ。庵野秀明も絶対に嫌いなはずだ。

 

エヴァンゲリオン解答編」とでも言おうか、こんな分かりやすくチープなまとめ方をしている一方で、世界観は相変わらずやれ精神と身体の浄化だのアディショナルインパクトだのやたらめったら複雑で専門用語を畳み掛けてくるセリフ回しでQ以上の難解さだ。要するに、不自然なほどわかりやすい表現といつもの庵野節が奇妙に同居している。

そもそもの物語構造も不自然なほどわかりやすい。ミサト=ホームから分離されたシンジがQでの出来事と第3村の暮らし=アウェイを通過することで大人となってミサト=ホームに帰り、新たな地位を得て「父殺し」をする。ギリシャ神話からスターウォーズ まで使いに使われた極めてスタンダードなオデッセイである。

 

これをどう見ればいいのか。とはいえ、エヴァの見方には明快な解答がある。押井守エヴァ評だ。

 

ひたすら映画を見まくるブログ 様

https://type-r.hatenablog.com/entry/20121205

 

エヴァ庵野のお気持ち表明であって、それ以上もそれ以下もありませんよ、と。

 

要するにフェリーニの「8 1/2」なのだ。しかしフェリーニと違って庵野が不幸だったのは、ただのお気持ち表明が世間に違う形で、はっきりいえば今盛んに行われている「世界観考察合戦」のような形で消費され続けてしまったことだ。これは庵野にとってはおそらく、昔ノリで撮ったイタタな黒歴史動画がネットに残ってネタにされ続けてる、みたいな類の苦しみだったんだと思われる(実際鬱になった)。

 

それを踏まえて「難解な世界観描写と不自然なほどわかりやすい表現の同居」という、この映画特有の性質から庵野のお気持ちを察してみよう。

 

といっても、これについても庵野は明確にメッセージを発しているように思われる。

 

 

となりのトトロ」がそうだ。第3村には「となりのトトロ」のポスターが貼られていて、スタッフロールでもジブリに  「となりのトトロ」で  画面協力を仰いだことがご丁寧に明記されている。これを単に第3村の風景が「となりのトトロ」のオマージュであるという解釈で留めるには、扱い大仰すぎる。「となりのトトロ」でなければならない強い意志を感じる。

 

そこで想起されるのが、宮崎翁と鈴木敏夫が「となりのトトロが消費される続けること」について述べたインタビューだ。

 

トトロを何度も見ることには断固反対(有料記事)

https://twitter.com/courrierjapon/status/1330986745488236546?s=21

 

(これ以外にももっと昔に宮崎翁がトトロを何回も見てる人を批判的に語るインタビューがあった気がします)

 

また宮崎駿は、彼自身の中でさつきとメイはとっくに大人になっていて結婚して子どももいると語っている。

にもかかわらず我々消費者と金曜ロードショーは30年以上もの間さつきとメイをこどものままでいさせ続けている。

 

エヴァの呪縛」とはこういうことである。

 

これが庵野のお気持ちだ。14年たっても子供のまま、アスカが大人になれない、エヴァの呪縛をかけた呪術士はお前ら(我々、客)だよ!!ということだ。

 

これを踏まえて「難解な世界観描写と不自然なほどわかりやすい表現の同居」から庵野のお気持ちを察するに、

 

君たちの好きな難解な世界観を用意はしたよ。でもそこには中身なんてなにもないことが分かっただろう。だからこれを解釈するためにシンエヴァをおかわりしてくれるな。俺の言いたいことはこれ以上なく分かりやすく伝えるから1回で十分だ。

 

ということじゃないかな。

 

つまりこの映画の正しい見方は、難解な世界観に頭を悩ませるのではなく、一回観れば理解できる、分かりやすく直接的な表現を追いかけていればよい、ということだ。

 

たとえば

 

・単純な通過儀礼の物語構造

シンジは(これ以上なく)明確に大人になった。これは我々サイドに対する大人になれ、という説教(旧劇)というより、むしろシンジ=庵野自身の「ぼくは大人になりました」というお気持ちを感じた。

 

・シンジの恋愛

初恋相手=アスカは14年たって他に相手=ケンスケが出来ている。あくまで個人的にだが肉体関係の示唆さえ感じる。(アスカとケンスケの間に流れる雰囲気は大人から見るとそうとしか思えない)。まさに生々しい現実の初恋。さらにアスカはクローン=創造物(=2次元の女あるいは初恋幻想の中の女)だった。しかしシンジはそれをポジティブにふっきって生身の女=マリと共に歩めるシンジ。マリは庵野嫁がモチーフで、昭和カルチャーが好き、母性があり、大人で才女(で巨乳で眼鏡)。庵野の理想の女になのだろう。嫁に対する感謝と愛情表現でもありますかね。イタイとしか言いようがないが分かっててやってると思います。「僕もそういう境地にたどり着きました」ということではないかな。

 

・「ニアサーも悪いことばかりじゃない」

ケンスケのセリフ。つまり、「大人になるのも悪いことばかりじゃない。」

 

宇部新川駅

庵野の電車好きは有名ですね。ラスト実写になるのは、これもおまえら現実に出て行け、というより、庵野自身が現実で頑張ります、シンウルトラ楽しみにしててねという表明かなと。ちなみにラストでアスカがひとりでいるのを気にしている人がいましたが、「こんな女現実にいたら友達いないに決まってるだろ」という庵野のお気持ちだと勝手に解釈してます。

 

・「他人の命を背負えるほど成長したのか」と神木隆之介

 

ゲンドウ。これはトトロと合わせて庵野が実は1番言いたかったことじゃないかと思っている。シンジ=庵野が背負いたい、継ぎたい他人の命とはなにか。それは宮崎駿ではないでしょうか。これは宮崎駿に対するメッセージ、「あなたも長くないでしょうが、私が継いでいきます。やっとその覚悟が出来ました。」ということじゃないかなと。大人シンジ=神木隆之介で終わらせるのも、声優を使わず俳優に声を当てさせる宮崎駿へのメッセージかな、と。

 

・全てのエヴァンゲリオンを終わらせる

もうエヴァというコンテンツを作らないし作らせない。

 

以上

シスになろう小説「スカイウォーカーの夜明け」

かつて僕はライトサイドの信奉者だった。

 

スカイウォーカーの夜明け。シークエル最終作のタイトルが公開されたとき、フォースは僕に最初の予知夢を見せた。このシークエルの結末を「レイ・スカイウォーカー」と呼ばれる人物が閉じることになるという災厄。

 

スカイウォーカーの文法。選ばれしジェダイ、ダークサイドへの転向、そしてライトへの帰還という終わりなきループ。

 

元祖三部作から始まったこの形式をプリクエル三部作も引き継いだ。

 

アウトキャストもそうだった。

 

ジェダイアカデミーもそう。

 

KOTORも。

 

The Force Unleashedも。

 

The Old Republicも。

 

フォースの覚醒も。

 

Rebelsも。

 

Fallen Orderも。

 

関連小説も皆全てそう。

 

しかし最後のジェダイだけは違った。そこには希望があった。この終わりなきループから脱する希望が。

だからこの予知を回避することは出来たはずだったんだ。

 

 

 

パルパティーン登場の情報が出たとき、二度目の予知夢を見た。「レイ・パルパティーン」。誰もが一度は考えた余りにも短絡的な解。誕生日のサプライズを事前に知らされていた時のような惨劇。

 

所詮夢だ。まさか起きるはずはない。

しかし時にそのまさかが現実となるのだ。

 

 

オープニングクロールが始まる。

 

      死者の口が開いた!

 

      レイは何者だ?

 

      ニヤリと笑うパルパティーン———

 

 

「イヤな予感がする」

 

やめてくれ、それだけは勘弁してくれ、内なる声が叫ぶ。

 

       レイ、お前はパルパティーンの孫だ。

 

       受け入れることが出来ないレイ———

 

分かるよ。僕も受け入れられない。

 

気づけば僕はダークサイドの侵入を拒むことが出来なくなっていた。

 

フィンが言いかけたことって結局なんだよ。ポーが運び屋だった話いる?3POの記憶、バックアップとってるんでしょ?新キャラ多すぎ。ローズもうこんな扱いかよ。ヒヨコはグッズの売れ行き不調だったんだな。ダークサイド・レイのカニ鋏セーバーもレイの黄色セーバーもディズニーアトラクション用かな。

 

ダークサイドの帳が降り始める…。

 

僕の中のライトサイドが必死に抵抗している。砂漠のチェイス最高やん。艦隊集結シーン燃える。ベンの見せ場もある。ランド!ハン!ルークのXウィング!レイアのセーバー!

 

しかしダークサイドは非情である。

 

      戦艦ひとつひとつが星を破壊できる———

 

まるでデススターのバーゲンセールだな。

そしてその時が訪れる。

 

      お前の中の憎しみ、怒りを感じるぞ。

      こやつらは間もなく全滅する。

      こやつらを救えるのはお前だけだレイ。

      ダークサイドに落ちるのダァー

      ヒェーヒェッヒェッ       

 

ここにきてエピソード6完コピ…!!

そして僕はダークサイドに屈した。

 

————————————————

 

これでよかったんだ。レイがスカイウォーカーじゃないだけマシだよ。スカイウォーカーは滅び、今後スカイウォーカーの物語が展開される素地も失われた。これで新しいスターウォーズが始まる。それだけでいいじゃないか。

 

 

 

 

 

その儚い達観を「レイ・スカイウォーカー」が打ち砕いたと同時に、僕は僅かに残った光さえも失ったのだ。

「スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」

結局のところ前作でライアンが示したスターウォーズシリーズの「新たなる希望」はJJのお気には召さなかったといったところか。

 

「最後のジェダイ」はスターウォーズシリーズの脱構築に挑戦した作品であった。前作で最も重要と思われるプロットは、

 

「ライトサイドが正しいあり方であって、ダークサイドは絶対悪である、というこれまでの解釈自体が間違っている。」(まさにルークが、「素晴らしい、全て間違っている」と言うように!)

「即ちジェダイ・オーダーは明確に失敗した」

 

というもので、それを物語的に表したのが、「レイは何者でもない」という事実であった。我々はそこにこそ確かな希望を見出していたはずだ。つまり、ジェダイの失敗を通してライトサイドとダークサイド、ジェダイとシスの終わりなき戦いという閉じた円環から脱する、言い方を変えれば、このシークエルトリロジーとその後続いていくスターウォーズ100年計画が、マンネリ化した「スターウォーズ」的物語を卒業して、開かれたフォースの神話となっていく希望である。

 

我々は、今回で全9作となるこのシリーズが6+3作となることを望んでいたのである。しかしJJはあくまでも9作というまとまりに拘った。JJはシークエルを「独り立ち」させるよりも、「家族の一員」として囲うことを選んだ。その強烈な象徴がパルパティーンであり、レイの出自だ。今作でルークはレイに「血より大事なものがある」と語る。これは確かにライアンのメッセージに符合するが、そこに説得力が伴わないのは、もちろんレイが結局「貴種」であったということもあるが、なによりJJ自身が「スターウォーズという血筋」にこれ以上なく拘っているからである。その意味で、スカイウォーカーの夜明けはスターウォーズという神話に正しくパッケージされた、正しいスターウォーズである。それが故に裏切られたと感じてしまうファンが、私を含め一定数存在するはずだ。

 

JJは公開前の様々なインタビューで、パルパティーンを出場させる意味について盛んに答えていた。映画を見てからだと、JJにとってパルパティーンがいかに重要であったかということがよく分かる。シークエルをスターウォーズの血統に綴じ込む為には、伝説の6作を貫く黒幕であるパルパティーンにもう一肌脱いで頂き、パルパティーンによって9作を一繋がりとする必要があったわけだ。

 

見ればわかるが、過去作への拘りはパルパティーンだけではない。というか、今作で初めて明らかになる事実やエモーショナルなシーンはほとんど全て過去作の要素である。レイの出自はもちろん、ランドの登場、ポーが昔スパイスの運び屋であったこと(ハンソロと同じ)、ルークとレイアの訓練、ルークのXウィング、C3POのくだり、ベンとハンの会話、ラストのイウォークなど。確かに感動するのだが、しかし懐古趣味的なシーンの連続で、その先に待ちうけていたのがパルパティーンの誘惑。「ジェダイの帰還」完コピシークエンスである。あそこで辟易しないかどうかでこの映画の評価が決まるといってもいい。その後のベンの見せ場や、同時進行する艦戦シーンが観れたから良かったものの、率直にいって私はダークサイドに堕ちかけた。「フォースの覚醒」をもう一度観せられていると思ったのは私だけではないはずである。

 

こうなってくると「フィンがレイに言いかけたこと」やレンが仄めかした「別の狙い」といった序盤の伏線が回収されてないこと、重要度の割にレイの両親の描写が少なすぎること、また、何故か最後まで顔面を晒さないゾーリやまたまた追加されたマスコット的キャラのD-Oやバブ、妙に造形を凝らしている割に一瞬しか映らないカニ鋏型ライトセーバーや黄色ライトセーバーなどグッズ販売の圧力を感じてしまう新キャラ・新アイテムもいちいち気になる。さらにはライアン・ジョンソンがせっかく(?)ぶち壊したルークのセーバーが何事もなかったかのように冒頭から既に治っていたり、前作で大活躍したローズが脇に寄せられてフィンには新キャラがあてがわれていたりするのを見ると、絶対に前作を認めないという強い意志を邪推してしまう。ダークサイドの誘惑に屈しそうだ。

 

展開のサプライズも非常に少なかったように思う。まさかレイの出自で驚かせようとは思ってないだろう(と信じたい)から、なにか一押し欲しかったところだ。ラストでベンが救援に駆けつけてからレイと並んでセーバーを構えるところまでは燃えたが、その後ベンがあっさり退場してしまったのは残念だった。全盛期に返り咲いたパルパティーンと2対1でチャンバラするぐらいはしてもよかったのでは。これを含めてベンの物語の閉じ方はベイダーをなぞっただけで驚きはなかった。レイが去った後デススターの残骸で佇むベンが非常にフォトジェニックでなにかを新しい展開を予感させるものであっただけに、残念である。

 

それでもこの映画にそれなりに満足感を得ることができたのは、信者であるという補正力を除くと、主役の3人の物語が楽しかったからである。3人の冒険譚と、 特にフィンの物語が良い。前作のスピリットをフィンがほとんど担っているからだろう。この映画はフィンの物語として楽しむべきである。

 

以上かなりダークサイドに傾いた感想だが、フォースの信仰力補正を加えた上でまとめると、決して悪い映画ではなく、むしろ正当すぎるといってもよいぐらい正当なスターウォーズであり、そういうものを求める保守的なファンにはかなり楽しい映画だったと思う。

 

我々の望んだ新しいスターウォーズの希望は、ライアン・ジョンソンの新シリーズに託そう。

俺のスターウォーズEP9

EP9の情報が少しずつ明らかになってきているが、その中でレイとスノークの正体とパルパティーンの役割について突如閃いたのでこの妄想を披露したい。またこの辺りはメインプロットにもなるだろうから、これを持ってストーリー予想に変えたい。

 


本論に入る前に、私が個人的にこれまでのスターウォーズEP1からEP8までのプロットの問題と思う部分を挙げておく。

 


1.ダース・プレイガスの悲劇問題

2.ミディ=クロリアン問題

3.クローンいつのまにか消える問題

4.パドメ語られなさすぎ問題

 


この妄想はこの4つの問題をEP9で全て解決してくれないかなーという期待に引っ張られています。

 


パルパティーンの意義

 


まず最初のトレーラーでみんな驚いたのは銀河皇帝パルパティーン再登場であるが、その驚きには良悪両面あったと思う。つまり人気キャラの再登場という驚きと、またお前かという驚き。これは制作サイドも予想できる反応で、だからこそ納得できる役割が与えられているはずだ。決して黒幕は実は生きていた銀河皇帝でしたとか、そういうことはあってはならない。

 


そこで銀河皇帝を再登場させる意義についてまず考えたい。この時に想起されるのが、EP3で語られ、アナキン・スカイウォーカーダース・ベイダーに堕とした最初の契機である「ダース・プレイガスの悲劇」だ。

 


ダースプレイガスの悲劇

https://starwars.fandom.com/ja/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%82%B9


皇帝の師匠であるダースプレイガスはミディ=クロリアンと呼ばれるフォースを感知・操作する為の細胞内微生物を操って生命を作り出す秘技を習得したが、その秘技を狙った弟子のシディアス=皇帝に殺害された。

愛妻のパドメが死亡する未来を予知したアナキンはその秘技に惹かれて皇帝側に堕ちていくわけであるが、肝心のその秘技は実際のところシディアスも全て習得したわけではなく、ベイダーとなったアナキンに共に解明しようといったきり宙ぶらりんで終わってしまう。

 


ここでもう一つ重要な問題がある。

悪名高き「ミディ=クロリアン問題」である。ミディ=クロリアンというワードはEP1において幼少期のアナキンに類いまれなるフォースの才能があることを説明する際に、ミディ=クロリアンの数値が異常に高いという表現で使われたのが初出である。これが世界中のスターウォーズファンに悪い意味で衝撃を与えた。つまりミディ=クロリアンがフォースの強さを表す遺伝子的なものと解釈されて、結局のところ生まれが重要であるというイメージを植え付けてしまったのである(これについて私は誤解によるものが大きいと思っているがそれについては本論から外れるので省略)これによって凡人以下のオタク集団である全スターウォーズファン(私含む)が泣いたというのがミディ=クロリアン問題の概要である。

 


現在のスターウォーズ制作の潮流もこの問題にはかなり気を使っていて、EP8最後のジェダイと外伝のローグワンでは、選ばれた者だけのフォースから、みんなのフォースに揺り戻しをかけようとしている。

実はここにこそ皇帝パルパティーンを再登場させる意義があるのではないか。

 


◯オーダー66

 


具体的な話をする前にもうひとつ、これまでのシリーズで宙ぶらりんになったままの問題を取り上げたい。それはクローンの扱いである。

クローンはEP2で副題にもなったが、ストーリーでは銀河帝国の前身である銀河共和国の起死回生の主力部隊であり、大車輪の活躍を見せた。が同時にクローン部隊はパルパティーンの陰謀の一部であり、ジェダイ虐殺の実行部隊になる。その後クローンはいつのまにか表舞台から消え、銀河帝国の主力は生の人間であるストームトルーパーになるわけであるが、クローンが消えた理由は定説が確立していないのが現状で、いわばまだ誰にも食べられてない美味しい部分である。J Jがここを見逃すはずはないと私は思う。

 


ダース・プレイガスの秘技の話に戻ろう。ベイダー=アナキンはプレイガスの秘技を求めてダークサイドに堕ちたわけで、しかもその後愛妻パドメは予知通り死ぬのであるから、秘技の探求を諦めるはずがない。

一方パルパティーンも師匠を殺害するリスクを犯してまで手に入れようとした秘技の探求をあっさり辞めるとは思えない。

となると、ベイダーとパルパティーンはそれぞれの目的の為にこの秘技の探求を継続していたと考えるのが自然である。

 


問題はパルパティーンが秘技を探求する目的である。パルパティーンはシスの理念に精通した上、影の存在であったダークサイドを銀河帝国という形で歴史の表面とすることに成功した大家である。しかしその無敵のシスにも弱点がある。シスの掟である。

 


シスには、師匠と弟子の2人しか存在してはならないという鉄の掟がある。

ダークサイドはたしかに強力であるが、極めれば極めるほど精神が暗黒面に堕ち裏切りの誘惑に晒されるリスクがある。

 


シスの掟

https://starwars.fandom.com/ja/wiki/2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%8E%9F

 


シスはその性質ゆえに数的不利を背負っているのである。

シスの世を作ろうとしたパルパティーンがこれを解決しようとするのは必然であろう。

 


その為には裏切りのリスクを回避する手段があれば良い。そしてその手段はEP3の時点でパルパティーンの手中にあり、しかも実績を挙げている。オーダー66である。

 


オーダー66

https://starwars.fandom.com/ja/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC66


パルパティーンによって整備・編成されたクローンは、パルパティーンの一声でジェダイを殲滅した絶対に裏切らない兵士である。

問題は彼らがフォース能力者ではないということだが、そこにプレイガスの秘技である。

 


そもそもミディ=クロリアンを操作して生命を作り出すというプレイガスの秘技とクローン製造というのは親和性が非常に高い。というより、生命を作り出すという点においてほぼ同じ技術である。そして両技術共にパルパティーンが握っている。

 

とするとパルパティーンは当初から2つの技術を組み合わせるつもりであったと考えてもおかしくはない。

 


そうしてシスの掟を超越したシス・オーダーを再興し、フォースのバランス修正を無視して恒久的なダークサイドの世を構築する。これがパルパティーンの計画であった。

 


と考えるのは如何だろうか。

 


◯レイの正体

 


ではそれが新新三部作にどう絡んでくるのか。

 


実は一部の優秀なクローンには愛称のような名前がついている。コーディ、レックス、オッドボールなどといったエース・クローン達である。彼らはファーストネームのみで、ファミリーネームを持たない。

 


レックス

https://starwars.fandom.com/ja/wiki/CT-7567

 


ところで新新三部作にもファミリーネームを持たない人物がいる。

レイ、フィン、スノークである。

 


このうちフィンは物心つく前に戦闘マシンとして訓練された少年兵で名前を持たず、ポー・ダメロンによって名付けられたことになっている。

 


レイのファミリーネームは当初スカイウォーカーの血筋を隠すために伏せられていると考えられたがそれはミスリードであったことが最後のジェダイで判明する。

 


スノークは、ラカタであると予想したトンチキがいたが(私のことです)結局すべてが謎のまま死んだ。

 


もうお分かりかと思うが私の予想は、

 


レイとスノークパルパティーンの人工シス製造計画の産物である。

 


というものだ。

 


ここに突如トレーラーに登場した通称闇落ちレイの存在と、最後に残ったパドメの問題、詳しくいうとこれまでルーク・レイアの母でありながら旧三部作以降の歴史でほとんど語られないパドメの問題を加えて具体的に説明したいと思う。

 


パルパティーンはベイダーと協力してフォースが強く命令に忠実な人工シスを製造する計画を立てた。その過程で生まれたのがスノークである。ところがスノークは初期の試作品で所詮劣化パルパティーンでしかなく顔も醜く崩れてしまう。

 


一方ベイダーの悲願は人工シス軍団ではなくパドメの復活である。ベイダーはクローン技術とプレイガスの秘技を使ってパドメの生まれ変わりを人工的に誕生させようとした。その成功を待たずしてベイダーは死亡するが、その計画は主導者を欠いたまま継続し(後述)、ついにパドメの生まれ変わりが誕生する。それがレイである。

 


エンドアの戦いでパルパティーンを失ったスノークであるが、パルパティーンの意思を忠実に実行する装置としてデザインされたスノークは、パルパティーンの行動を焼き直すことしかできない。ファーストオーダー、スカイウォーカーへの固執とカイロ・レンの訓練、レイへの誘惑、ファンサービスとしてパルパティーンに似せていたと思われたフォースの覚醒以後のスノークの行動は、そうするしか生きられないスノークの悲しい性なのである。人工シス製造計画も、パルパティーンの意思を再現するスノークによって継続される。

 


ベイダーのパドメ復活計画とパルパティーンの人工シス製造計画は、両主導者を失って前者が後者に吸収される形で一本化される。レイは、ジェダイでないただの人であったパドメの純粋な人工転生者なので、フォース能力者としての調整はなされておらず、その為に廃棄され、ジャクーで拾われ、酒代のために売られる。

 


その後きちんとミディ=クロリアンを操作して製造された人工シス、マスプロダクションとしてレイ型のシスが生産される。これが闇堕ちレイである。つまり闇堕ちレイは、みんなの大嫌いなミディ=クロリアン問題の権化である。

 


ところがミディ=クロリアン的には凡人としてデザインされたレイが強いフォースに目覚め、闇堕ちレイと対決し、打倒する。

これで物語的にもミディ=クロリアン重要説を否定するのである。

 


また、レイとレイアは特別な絆で結ばれているように描かれるシーンが多く、これはレイアがレイを娘のように思っていると思われたが、実は逆なのだ。

 


そしてよく見るとレイとパドメは無鉄砲で活動的な性格も良く似ているし、メイキャップも似せているように思えなくもない(さすがに無理あるか)。

 


なにより、なぜかスターウォーズを語る際パドメが脇に追いやられるという問題が解決されるし、女性を主人公にしたことにストーリー的な深みを与えることができると思う。

 


◯カイロ・レンについて

 


この妄想によるとレイとカイロ・レンのグラデーションがはっきりする。

 


カイロ・レンは歴史を背負って生まれたが故にその歴史に縛られ、ついにその歴史自体を破壊することで自らの時代に意味を持たせようとする。

 


参考カイロレンのセリフ

It's time to let old things die. Snoke,Skywalker. The Sith,the Jedi,the Rebels.... let it all die.

(古きモノを葬る時が来た。スノーク、スカイウォーカー、シス、ジェダイ、反乱軍、全て葬り去るのだ)

 


対してレイは、なんの歴史も持たない人工物として生まれてきたにも関わらず、歴史を背負って戦うのだ。

 


ではカイロ・レンにとってレイは何者なのか。

 


レイがパドメの生まれ変わりだとすると、カイロ・レンにとってレイは古きモノのひとつであり、破壊対象である。

 


最後のジェダイにおけるカイロ・レンのレイに対する態度は以下のような様子である。

 


参考カイロ・レンのセリフ

Do you wanna know the truth about your parents? Or have you always known? And you've just hidden it away. You know the truth. Say it. Say it. REY: They were nobody. KYLO REN: They were filthy junk traders who sold you off for drinking money. They're dead in a paupers' grave in the Jakku desert. You have no place in this story. You come from nothing. You're nothing. But not to me. Join me. Please.

(レン お前の生まれの真実を知りたいか?あるいはずっと知っていたか?お前はただそれを見えないようにしていただけだ。お前はすでに知っている。言え!言うんだ!

レイ 両親は何者でもなかった

レン お前の両親は汚いジャンク屋だった。お前は酒代の為に売られただけだ。彼らはジャクーの貧民墓地に埋まってる。この物語にお前の居場所はない!お前は無から生まれたのだ。お前は何者でもない。でも俺にとっては違う。私につけ。頼む!)

 


改めてこのセリフを見ると、レンは必死にレイを「何者でもない存在」にしたがっているように見える。

 


最後のジェダイにおいてレンはレイと感応してレイの両親について知るが、その際にそれが育ての親に過ぎず、実はクローン技術によって生まれた自分の祖母の生まれ変わりであると知ったとすればどうだろう。

 


レイは何者でもない人工物という側面と、スカイウォーカー家の生みの母という側面の両面性を持つ存在である。

いわばカイロ・レンにとって、歴史を全く持たない理想的な存在であると同時に、破壊すべき歴史そのものでもある。

だからこそレンは、レイを前者に留めておきたいのではないだろうか。

 


言い換えれば、レイにパドメとしてではなくレイとして生きてもらいたい。レイとしての存在意義をもたせたい、という欲求がレンにはあるのではないか。

 


レイが自身の正体という悲しい宿命を知らないままにしてやる為にレイと衝突する、とかだといまひとつヘタレなレン君にもいい味が出るのではないかな。

 


もしくはカリスマとして神格化していた祖父のベイダーが、妻への愛の為にダークサイドに堕ちた俗物であったことを知っていよいよ暴走するとかでもおもしろいかもね。

『君の名は』とウーマン村本とシャア

大ヒット長編アニメーション『君の名は』が1月3日に地上波で放送していたのでやっと観ました。

というのも『君の名は』には当初から全然興味がなくて、それは面白い面白くないということではなく、趣味じゃないという話なだけなんですが、反面、『君の名は』批評にはものすごい興味があって観てないのに話は知ってるという、まぁよくあることですね。

 

『君の名は』批評(というかほとんど言い掛かり)で面白かったのは、当時でも大ヒットの数字が出ていたのにも関わらずものすごい論調で叩かれてたじゃないですか。いろいろ見たんですけど、やはり枡野浩一さんの批判(というかほとんど言い掛かり)がほとんど大勢の批判の代表例になってるのでこれを聞くといいと思うんですけど、

 

https://t.co/9F9cfOHgTI?amp=1

君の名はの話は60分前後から

 

ただ、今回ちゃんと映画観て、なんでこの作品が色んな人の神経を逆撫でするのかも何となくわかったんですよ。そこを分析することにすごく意味を感じたわけです。

 

 まず批判の大部分を占めているのがご都合主義的な展開ですね。フィクションってそれ自体が作家のご都合で描かれるもんなのであんまり言っても仕方ないんですが、あまりにご都合主義すぎると物語から置いていかれるので塩梅が難しいですよね。

 ただ今回『君の名は』はSFなんですよね。SFって最もご都合主義が許されないジャンルなわけです。ホーガンの『星を継ぐもの』が、ノーランの『インターステラー』がなぜ評価されたかですよ。いかに考証をしっかりとしながら突拍子も無いことをいうか、で評価されるんですね。ワキが甘いとすぐケンカ買われちゃうわけです。ここでSFクラスタの恨みを買うわけですね。

 それで、これは僕の意見なんですが、人類学とか神話伝承学を雰囲気で使っちゃったのもマズかったのかなとおもいます。口噛み酒と結びですね。どちらも入れ替わりの状況を理論補強するために用意されたんでしょうが、活かしきれてなくて、雰囲気で終わってしまっている。ここでも特定のクラスタがケンカ買っちゃうわけです。

 

 次によくあるのが、升野氏の言葉を借りれば「童貞っぽい」という批判ですね。言い得て妙だなと思いました。確かに「男女が入れ替わって生活するうちにお互い好きになるんだけれども女が死ぬ運命にあることに気づきその運命を変えるついでに町も救っちゃう」というストーリーは書いてるだけでイカ臭いですね。加えて制服JKを極めてローアングルに取るとか、21世紀になってもまだミニスカートの中無防備とか、意味なくブラチラしたりとか夢精(無声ではない)映画のお約束を踏襲した素晴らしい知能指数ゼロのラインナップ。

 こういうところで、エンタメといえども知性を求めるインテリをイラっとさせるわけですね。あと冗談半分の勝手な邪推ですけど、インテリは恋愛偏差値が比較的低い反面性欲が強い傾向があって、こういう演出は普段抑えつけてる僕のリビドーという獣を目醒めさせないでくれ!と困っちゃうのもあると思いますね。

 でもこういうの、最初にやり始めたの誰かは分からないですが少なくとも巨匠宮崎駿はやってますよね。アニメに少女が出てきたら無防備なスカート履かせてローアングルで撮るって、ほとんど普遍的なお約束になりつつありますよ。批判するならそのお約束自体を批判しないとダメですね。

 

 そして最後が不謹慎論ですね。感動のために町民を大量死させる必要があるのか、という。これは正しくいえば、人が死ぬことによって得られる感動の度合いが人死に見合ってない、ということだと思うんです。だって人が死んで感動させる映画って基本のキぐらい山ほどありますしね。じゃあ見合ってるのか、見合ってないのか、と考えてみると、そんなの ひとのかって ほんとうに つよい アニメファンなら すきな アニメで 泣けるように がんばるべき としか言いようがないことに気づくわけですね。

 

そしてですね、僕が升野さんの批判で見過ごせなかったのは、入れ替わりの時間のズレになぜ気付かないのか、交換日記に時事ネタかくだろう、クラスと恋愛のことしか頭にないのかという部分です。これはまず間違いないですが、高校生は交換日記に時事ネタなんて書きませんよ。クラスと恋愛のことしか頭にないです。それは高校生がバカっていってるんじゃなくて、そうならざるを得ない環境にいるからですよ。15、6の多感な時期になりゆきと数字で選んだだけの高校に突っ込まれて、いきなり対面した見ず知らずの何百人と月月火火水木金授業に部活に朝から晩まで仲良く暮らせといわれるわけですから、新聞なんて見ないです。社会科でわざわざ新聞に親しむように仕向ける授業があるくらいですからね。ここにですね、若い人への理解のなさを感じました。

 

つまりですね、『君の名は』はSFクラスタにケンカを買われ、神話伝承や人類学スキーにケンカを買われ、インテリを困らせ(性的な意味で)、不謹慎論を煽り、若者を過大評価する大人を辟易させるわけです。しかも、それぞれの集合は非常に親和性が高いんですよ。SFファンで、神話好き、東北大震災に心を痛めているインテリの大人、って山ほどいるんですね。僕を含めた庵野秀明で育ってきた世代ですよ。多分これが『君の名は』を叩いていたものの正体だと思います。

 

しかしこれらの批判は畢竟言い掛かりなんですね。いろんなクラスタがケンカ買うっていいましたけど、そもそも新海誠監督はケンカなんてこれっぽっちも売ってないんですよね。この作品はいかに高校生2人の運命的な恋愛を雰囲気良くファンタジックに見せるか、であって、SFでも神話ファンタジーでもないんですね。全部雰囲気なんです。そういう意味では批判している人たちのいう童貞っぽさこそがこの作品の本質なんですよ。夢精映画なんです。批判している人たちが実は一番本質を掴んでいるんですよ。というか、新海誠の売り物がそれだということはフィルモグラフィー的に間違いないですし、この作品に限っても予告を観た段階で分かります。だから僕は趣味が合わないと断定して観なかったんです。つまり批判している人たちの大部分は、売ってないものを1人で勝手に買ってるんですね。もしくは大人がベビーフード買っといて、まずい!こんなもん食いもんじゃない!っていってるようなもんです。

 

 つまりこれって端的に言えばよくあるインテリのマウンティングなんじゃないのってことなんです。で、こう考えてるうちにウーマン村本が元旦に朝生でボコられてるのを思い出しました。

 

http://lite-ra.com/i/2018/01/post-3711.html

 

ウーマン村本と『君の名は』ってよく似てるなぁと思うんです。ウーマン村本がやっかみをうけるのって要は何も知らんくせに語るなよってことじゃないですか。ウーマン村本は実際自分はバカで何も知らないけど、と再三前提して政治を語るわけです。それで無知を恥じろとかいわれる。まぁ言いたい気持ちも分かるんですが、でも、政治ってそういうもんじゃないの、とも思うんですね。ウーマン村本が自分を視聴者代表というように(実際に視聴者代表と認められているかどうかは別にして)、確かに有権者のほとんどは政治的に無知な人ばかりですよ。政治家すら無知でしょう。政治を専門でやってきた議員が何人いるのか。でもそれを引き受けた上でやるもんでしょう、政治って。村本に無知を恥じろという人たちは1億4千万の有権者に相対したときにも同じこと言えるんかいな、と思うわけです。そうやって貴様は、永遠に人を見下すことしかしないんだ!とシャアに叫ぶアムロの気分になってくる。こいつらはシャアなんですね。でもシャアは負けていくんですよ。

 

百歩譲って政治は分からないと語ってはいけないとしても、『君の名は』は映画なんですよ。映画って本来はインテリから最も遠いコンテンツですよ。分かってないやつらの為のコンテンツなんです。だから分かってるやつらがこねくり回していいものと悪いものがある。『君の名は』は無理やりこねくり回さなくていいんですよ。スイーツ気分で観ましょう。

雑記事「最後のジェダイ」について

EP8について

EP7からの新新三部作は、これまでぼんやりとしか匂わせていなかったジェダイやフォースの宗教的色合をはっきりと描こうとしているように思う。ジェダイ・オーダーという組織がそもそも超常的な存在(フォース)や厳格な規律、修行(さらに強大な武力)といった面で宗教団体であるし、EP7のマズやローグワンのチアルートといった今回新たにメインキャストとして活躍する「非ジェダイのフォース信奉者」は、「フォース教」の色合を濃くしている。これに加えて町山智弘氏の「カイロ・レン=ISに合流する若者」という指摘を借りていえば、現代の宗教、特にユダヤ・キリスト・イスラムの複雑化した、というより魔界化している教義解釈間の断絶をサブテキストにしているのではないかと思う。

 

EP8「最後のジェダイ」は、しきりに「衝撃の展開」を謳っていて、少しでも映画をかじった者ならその謳い文句がこれまで我々にもたらしてきた結果にげんなりとするのであるが、「最後のジェダイ」の結末がどうなるにしろ、ストーリーの要は「ルークがEP6以降一体なにをしたのか」という部分だろう。現在判明しているのは、「ジェダイ・オーダーを再建しようとして失敗し、レン騎士団という造反者を出した」ということだけである。よって、起承転結の基本からいって、EP8ではルークがどう失敗したかが描かれるはずだ。「衝撃の展開」の大部分はその内容にあたるのではないかと思う。

 

ここまではなんというか当たり前の話で、ここからがスターウォーズ・ファンの鍛え上げられた想像力(と書いてフォースと読む)が及ぶ範疇である。ルークはなにを失敗したのだろうか。親友の息子で甥のベン=カイロレンをはじめとする新生オーダーの面々がダークサイドに堕ちるのを阻止できなかった、つまりオビワンと同じ失敗をした、というのが大筋の理解であるように思うが、だとするとルークはとんだ無責任野郎ということになる。オビワンは弟子であり親友のアナキンがダークサイドに転落したあと、躊躇はしたものの自ら彼を抹殺しにいった。ルークはというと、よく分からない遠い星に引きこもってしまった。しかもそのまま消え去るわけでもなく、やたらと周到な手段によって隠蔽された地図を残して必要な時は呼んでね、という始末である。これではルークに憧れた我々世代はがっかりどころではないし、まさにその世代であるスタッフの本意ではないだろう。ではあるべきルークの姿とはなにか。

 

EP6までのスターウォーズはアナキン=ダースベイダーの物語である。フォースにバランスをもたらす者として処女懐胎によって出生した「キリスト」であるアナキンは闇に堕ちるが息子であるルークによって善を取り戻し、やっとその使命を果たす。劇中アナキンの体験とルークの体験を意図的にダブらせているのは周知の通りで、ルークはある意味でアナキンの一側面、善の部分を背負っている。そのルークがジェダイをどのように再建しようとするか。ジェダイ・オーダーはその性質上極めて閉鎖的かつ一部優生主義的な部分もあり、マスター・ナイト・パダワンといった階級制度の縦社会である。また、ヤヴィンの戦いから数千世代前から続くジェダイの歴史の中で、保守的な理念や規律が形骸化していた(まさにキリスト教誕生直前のユダヤ教のように)。それは結果的に皇帝をのさばらせ、ジェダイ自身の壊滅を招いたが、アナキンはダークサイドに堕ちる前からそれらジェダイの負の側面に疑問を抱いていた。そのアナキンの善を背負うルークが再建するジェダイ・オーダーには、なんらかの改革が施されているはずである。結婚容認や年齢制限排除など規律の緩和がまず挙げられるが、私が予想する改革の核は、才能主義の撤廃である。つまり、「加入(入信)希望者は誰でもフォースの扱いを訓練する」開かれたジェダイ・オーダーこそ、ルークの考えた新しいジェダイ像なのではないだろうか(まさにイエス・キリストがそうしたように)。そもそもフォースとは強弱はあれどあらゆる生物に宿る「仏性」みたいなもので、ジェダイナイトのように超人化まではいかなくともフォースの知覚ぐらいまでならば到達可能性がある(フォース・センシティブ)。チアルートがいい例である。また、EP7ではマズが非常に重要なシーンで、フォースはあまねく全てに存在しているとしきりに強調しているのも、それがまさに新オーダーの理念となっているのであれば(さらにマズが新オーダー結成に寄与しているとすれば)合点が行く。さらにジェダイに憧れ、ジェダイになりたいと本気で思い、自動ドアに手をかざす我々鑑賞者のフィーリングともリンクする(もっといえばこの先100年スターウォーズで儲ようとしているディズニーとしても、ジェダイの間口は拡げておいたほうが都合がよい)。

 

しかし、改革には保守派の反対が付き物である。ルークはこの理念のもとジェダイの再建に乗り出したが、ベン=カイロレンの思想が誤算だった。カイロレンは祖父のアナキン(旧世代のジェダイ)に強い憧れをもっていた。そして原理主義に陥ったのである。ジェダイを大きく方向転換しようとするルークに反発、ジェダイ原理主義組織としてレン騎士団を結成、その後スノークと接触し、ダークサイドに落とされたと考えると辻褄が合う。つまりダークサイドに転落→ルークと敵対、ではなく、ルークと反発→ダークサイドに転落という順番ではないだろうか。この経緯によってルークは新オーダーの方向性に迷い、引きこもっていたのではないかと予想する。妄想を加速させれば、EP8か、或いは9で「非ジェダイ」であるハン・ソロの霊体とルークが交信し、ルークがフォースの開放を改めて決心するというシーンが入るはずだ。ハンソロの霊体化は国民皆ジェダイのこれ以上ない象徴となるし、ルークとハンソロの絡みがこれまで一切ないのも解せない。もしこのシーンが入るとすればEP7で既に撮影されていて緘口令が敷かれているのだろう。実現すれば確かに衝撃の展開である。

 

ではタイトルの「最後のジェダイ」とは誰のことであろうか。これまでの妄想を土台にすれば、旧世代最後のジェダイ、という意味でルークのことかとも思うが、あえて突拍子もない予想をすると、スノークのことではないか?
スノークは大昔ヨーダ以前のある時点で一度滅んだジェダイ・オーダーの生き残りか、或いはオーダー66を生き残ったジェダイかで(頭に傷がある)、その時代の原理思想をカイロレンに植えつけたとか、そういうキャラづけをした上でタイトルとして出しておかないと今のままでは悪役としてキャラが弱すぎる。

 

最後に三部作中間恒例の腕切りについて。
カイロレンがダースベイダーになる為に自分で自分の腕を切ることでより狂人化するとかどうでしょう。但し、EP7を執拗に旧三部作風にしたのは、ファンサービスはここまでだよ、これからは好きに作るよ、という表明だと思っているので所謂恒例行事があるかどうかは分からない。

「シン・ゴジラ」

この映画を観て最初に抱いた感想が、

 

「なんてメンドくさい映画だ」

 

だった。

 

決して貶しているわけではなく、恐らくこの映画が極めて私的なモノであったからだろう。その辺りはエヴァファンのほうがよく分かっていると思う。

http://machinaka.hatenablog.com/entry/2016/07/31/000923

 

ゴジラという極めて「公」的な「テーマ」をあくまで「私」的なドラマに仕立ててしまう庵野秀明の強烈なエゴイズムは、確かに彼を稀有な「作家」たらしめている要素であるし、そのエゴイズムこそ古今東西あらゆる芸術の源泉だ。だから「シン・ゴジラ」はこれでいいのだろう。ゴジラの「公」的な役割は160億円の「GODZILLA」(2014)に譲れば良かろう、といったところか。

 

石原さとみがガッズィーラをゴジラと言い換える場面も、はじめは「GODZILLA」劇中で芹沢猪四郎博士(ケン・ワタナベ)が「ゴジラ」と日本語読みする場面を連想したが、むしろ庵野ゴジラ私的利用宣言と捉える方が良いかもしれない。本作のキーワード、「好きにしろ」もそうだ。

 

ハリウッド版「GODZILLA」は全世界で当たった。実際にゴジラ愛に溢れた素晴らしい作品であった。映画は予算ではないと吼えたところでこのまま日本が「GOZILLA」を作っても勝てるわけがないのだ。故に「ゴジラ」の私的利用価値を抽出して、日本の「ゴジラ」を残す。つまり、もはや「GOZILLA」となってしまった「ゴジラ」から「シン・ゴジラ」を生み出す。これは新ゴジラでもあり、芸術は私的な自己表現であるという本質からいえば真ゴジラでもある。これを極めて公的な存在となった「GOZILLA」(もしかしたらエヴァと重ねているのかもしれない)のアンチテーゼとしてぶつけてアウフヘーベンさせていく。こうでもしないと日本で「ゴジラ」は作れないよ、というのが庵野秀明の意図だったのではないか。

 

ところでこの広告

 

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を見たときから嫌な予感はしていたが、エヴァのせいで発症した鬱病から立ち直った庵野がまた

 

「さっさと現実に帰れ」

 

エヴァの時と同じように説教しているのはどうしたことだろうか。

 ミリオタ全開でゴジラ討伐シーンを描いているときは勿論庵野も楽しかっただろうけれども、観客も乗り出して熱中していた。ところが最後に、

 

後処理が大変だからまだ終われない

 

と、頼んでもいないのにキッチリ現実に引き戻してくれるのである。

頻繁に流れるエヴァのBGMやヤシ「オリ」作戦もそうだ。エヴァの呪縛から逃れたいはずの庵野がなぜ…。

 

エヴァを呪縛ではなく作家性として受け入れたのだろうか。それはシン・エヴァンゲリオンを観れば分かるのかもしれない。